熱日高彦神社は古くから神輿を担いで氏子中を巡って渡御してきました。大東亜戦争で多くの若者が戦場に召し出されていた時も、戦後、戦勝国が学校や公共機関・マスコミを総動員して日本の伝統文化を壊そうとしていたときも、好景気で若者が都会に憧れて行ってしまった時期も、先輩たちの力で一年も休むことなく渡御されました。ただ、若者たちがいなくなった一時期、10年ほど総代たちが耕耘機やトラックに載せたりして命脈をつないで参りました。それも23年前、若者たちの強い意志で再び担ぐことが復活し、今日にいたりました。
現在、その流れを継いで皆さんにご協力いただいております。
香取神社を伴う神輿渡御は県内唯一
さて、当神社の神輿渡御には他の神社にない大きな特徴があります。それは香取神社の神輿と連幸(連なって進むこと)することであります。なぜそうなったかについては明確には言いかねますが、一つにはご祭神のかかわりが考えられます。
熱日高彦神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)と瓊々杵尊(ににぎのみこと)とを主祭神にしていますが、日本統一の霊剣の神様をお祀りする鹿島・香取を南北に配祀して当神社を擁したものとも言われております。よって当神社の神輿に小斎の鹿島・大谷の香取両神社が供奉(ぐぶ)する形で渡御したものでしょう。ただし、鹿島神社は早くから引き上げました。50年程前には、山中の道を通って帰る鹿島神社の神輿のことを語ってくれる老人がいました。いずれにしても、香取神社の総代や氏子の人たちは当神社を「御本社」と称しています。当神社を中心とした連幸であることは間違いありません。
この形態は、県内でも唯一と思われます。文化財として貴重なものと考えられております。
豊穣・増殖・縁結びの神事
また、別の言い伝えでは、男女の神様が春の種播きを前にお会いになり、一年の繁栄の源をお授けになると言うことです。人間を含め生命の繁栄の神事と言うことになります。一般に熱日高が男で香取が女という風に考えられていますが、ごく古い結婚の型からすれば通う香取の方が男性と言うことになります。が、御祭神は両方とも男神。これには当地にあったずっと古い信仰によるものと思われます。
鐘撞堂(池田溜池)で別れ際の胴上げはクライマックス。これで勝った方が豊作になると言われていますが、軽量な香取神社の神輿の方がなぜか一歩譲って早く終えるのが慣わしの様になっておりました。
少なくとも江戸時代からの歴史
江戸時代の神輿修復の記録があり、また当神社の祭典に伊達藩から足軽4人を警護に充てて派遣したとありますから、これは神輿のことであろうと思われます。また、「山家様が来ないと神輿が出せなかった」と言伝えられておりますから、派遣されたのは山家氏を中心とした武士達でしょう。石川口には桑島、目黒、小荒井、香山などの武家がいましたからその侍たちがこれに充てられたものと思われます。
いずれにしても、江戸時代には神輿渡御は厳襲されていたし、香取神社を伴うことも当然あったはずであります。
神様を各家にお連れするのは若者の役目
では神輿渡御はなぜ行うのでしょうか。
神輿には古い歴史があります。輿(こし)は人が担いで載せる乗り物で、おおかた偉い、尊いお方の乗り物。その場合は「御輿」、神様をお載せするから「神輿」と言うわけ。ちなみに乗る場所が下に付くのが「籠(かご)」です。
お祭は、そのときに神様をお迎えしてご馳走(御供え物)を捧げて感謝を述べ、氏子の安泰、繁栄を祈願する催しであります。迎えた神様は地域の先祖の御霊であり、生命増殖のパワーです。その神様を今度は氏子それぞれの家にお迎えしてお祭りしようというのが神輿であります。それも若者達の肩で賑やかにお迎えするのが作法であります。
若者は力もあるし、創造力もあります。その力で面白く力強く担ぎます。その明るさ力強さが即ち神様の姿です。また、純真な子供がタカイタカイされて喜ぶのと似ているともいえます。そうしてみると、やはり担ぐのは若者でなければいけないのです。もちろん心得のある先輩たちを伴ってのことであります。