温故知新
〜本家の屋敷神様が立派なわけ〜
光目内の只野正巳氏のお宅が、当地の只野家の大本家だそうです。この家の屋敷の乾(いぬい)の角に木造の手の込んだ造りの神様が祀られています。このほど、覆い屋の屋根が破損したため改築したのでよく見ると、三社造りで、慶応元年十二月二十九日の木の札が三枚入っていました。これによって御祭神は保食神、高良玉垂命、底筒男命の三神であることが分かりました。また別に少し新しい木札があり、これからは戸主只野兵三郎の依頼で斎藤平十郎が明治二十一年十一月二十三日に現在の社を改築したことが分かりました。この斎藤平十郎は当地の「巨匠」として称念寺門前に記念碑のある人です。社はたいへん傷んではおりますが、木羽葺きの立派な建物であります。今日建てるとしたら百万円はくだらないと思われます。
このような立派なお宮をなぜ建てて、この三神を祀ったのでしょうか。
まず、保食神(うけもつのかみ)は倉稲魂神と同一神と見られ、稲を始め食物や着物、生産をつかさどるお稲荷様。高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)は竹内宿禰、亦その子葛城ノ襲津彦をあわせた神名とも綿津見神(海神)とも言われ、神功皇后が新羅を攻められたときに潮の干満を皇后にささげて、容易ならしめられたと伝えられております。底筒男命(そこづつおのみこと)もまた神功皇后朝鮮半島に征渡されたときに中筒男神・表筒男神と共に神威をお顕しになった神様です。この筒男三柱は住ノ江三神として住吉神社の御祭神であり、海(水)上交通・漁業・農業の神様であります。
三社造りの場合、中央が主祭神、向かって右脇が次の位、左が下位となりますが、高良玉垂命の幣札が在ったことから中央が高良様と推察しました。その他はどの順序に入っていたか判りません。
住吉神社は枝野にありますが、もともと大阪、山口県、福岡県に在った大社であり、高良玉垂神社も阿武隈沿いに点在してありますが、大本の高良神社は福岡県の高良山に鎮座の大社です。稲荷神社は当地では屋敷神に多く祀っている作神様であります。
このことから、只野家がこの地に足を下ろして何を念じたかが推察できます。桜井川の堤防はまだなく、矢走りからの水が年に一度ぐらいは堰場、柳町の辺りを越えて来たかもしれません。只野家の後ろから島田前までは、東山から石川口を通って流れ下る川水で大きな沼でしたから、光目内、郷主内の家々では屋敷回りに堀を掘り、田舟を持って農事や出水に備えていました。それでも肥沃なこの土地は捨て難い住居地であったのです。
底筒男命は住ノ江三神の内でも水の底をつかさどる神様で、川が運ぶ沃土に関るこの神様がやはりふさわしかったのです。高良玉垂命は水運の神、農神。保食神は農業、生業の神です。この三神に生活の安全を祈願したものととれます。あるいは、元来只野家がこの三神の信仰を持ってこの地に根をおろしたとも察しられます。そうであれば只野家は海浜の生活をしてきたか武家の名残をもっていたとも考えられます。
治水も農業技術も未発達であった昔、神に祈るしか術がなかったのも事実ですが、個人の家に神様を造らなくともそうした神さまにお参りすれば済んだことです。やはりなぜこんな立派な祠を建てなければならなかったのか、疑問が残ります。

只野家氏神
〜屋敷神様って何?〜
さて、周辺で古い屋敷神を持っている家はたくさんあります。例えば目黒家の勝重稲荷神社、山家家の和霊・鏡石神社、香山家や戸村家の館稲荷神社、佐藤家(啓宅)の淡島神社、斎藤家(平松宅)の木落神社、門馬家や菅野家の熊野神社、佐久間家の荒神社などは神社名をはっきり意識しています。木幡家などこの地区で多くは稲荷神社として祀っています。当初に紹介した三社造りも「おいなっさま」と呼んでいたそうです。どの家でも祀ってはいますが、大きくて立派なものは多くは武家のように人をまとめた家、本家のように血族の中心の家、職業や芸能集団の家元に祀られていたことが判ります。そして御祭神を見ると、勝重稲荷社・木落神社・鏡石神社などは「○○家遠津御祖神」であり、稲荷、熊野、粟島等とした場合はそれぞれ御祭神が決まっています。
当地で屋敷神として多く祀られている稲荷様は、実は稲魂(いなだま)であり、年どしに祖霊神が稲魂となって来臨すると考えられてきたのです。よって稲荷即祖霊神と見て過言ではない。つまり本家では祖霊を祀って一族の守り神としたのであります。一族は即ち「氏」であり、その祖霊は氏神であります。よく「内神さん」というのはこれだというのです。祖霊はお墓かお寺に、あるいは西方浄土に在りとするのは仏教の教えで、日本古来、三十三年、五十年の弔い上げが終わると氏神様、産土様になるとされておりました。それで立派なお宮が造られたことが判ります。
分家を出すと、とかく本家の屋根色が心配になったりします。それでも本家の屋敷神様の格式は一族の守り神ですから、皆でお参りし、お互い負担も分け合うと一族の繁栄につながると思いますが、いかがでしょうか。
〜お祭のお呼ばれは楽しく〜
一昔前はお祭りに呼ばれていったものです。その地域の内神様をまとめたのが鎮守様ですから、地域の総合の祖神、氏神であります。呼ぶ方も、呼ばれてご馳走になる方も理屈に合っていたわけです。これが終戦後廃れました。それを廃止させたのが新生活運動で、戦勝国が日本人の精神のまとまりを崩す狙いで「虚礼」と決め付け、押し付けたのでした。
お祭りに呼ばれていくのはその家や一族の祖霊である氏(内)神さまをたたえて、繁栄を祈りあうことなのです。お土産に大きな赤飯のおにぎりを持たせました。あれが「御霊(みたま)の飯」です。
四、五月は祭りの季節であります。当神社始め伊具郡内の神社のほとんどが四月に例祭を行っています。同時に重勝稲荷神社から始まってほとんどの屋敷神様も四、五月が祭日です。それは農作業の初めにあたって、作神様である祖霊にご馳走をして勢いをつけて貰う狙いがあるのです。そのほか、三島神社や和霊神社・鏡石神社が夏、門馬家の熊野神社や佐久間家の八重垣神社が秋ですが、これらも一般に夏祭(花掛けを促進する狙い)や秋祭(収穫の感謝)の季節です。お祭にお参りに行くのは当然のことですから、ご馳走になることを遠慮しなくてよいでしょう。
目に見えない神様の姿を、お客様が演出したものと思われます。お客様は神さま。御祭のご馳走は、神様のようにおおらかになって賑やかに、楽しくいただくことです。悪口やけんかは大変失礼なことです。
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